長崎市桶屋町の中島川沿いにある向陽山光永寺では、樹齢450年超の大イチョウの葉が鮮やかな黄色に染まり訪れた人を楽しませています。
光永寺は福沢諭吉が宿泊された場所や長崎県議会開設の地だったりといろいろと興味深い場所です。
本記事では光永寺の大イチョウについてご紹介いたします。
秋は黄金色に輝く大イチョウの木
毎年11月下旬頃から黄金色に色付きます
長崎市桶屋町の中島川沿いにある光永寺では、樹齢450年超の大イチョウの葉が鮮やかな黄色に染まり訪れた人を楽しませています。
光永寺は福沢諭吉が長崎遊学の際に宿泊された場所になります。
福沢諭吉<1835〜1901 大阪(中津藩蔵屋敷)生まれ>
慶應義塾の創始者である啓蒙思想家・教育家の福沢諭吉は、大阪にあった豊前国中津藩士の次男として生まれました。
向陽山 光永寺
安政元年(1854)19歳の時来崎し、中津藩家老の子・奥平壱岐の世話で、この永光寺に一時寄宿し、その後、出来大工町にあった高島秋帆門下の砲術家・山本物次郎の家に移り、長崎で約1年間蘭学を学びました。
現在も福沢諭吉が使用したといわれる井戸が出来大工町の一画に残っています。
また、滞在中は勉学に励むため、接客時以外は酒を飲まなかったともいわれています。
安政5年(1858)江戸へ出て築地にて蘭学塾を開きました。
これが、慶應義塾の起源とされています。
万延元年(1860)咸臨丸で渡米し、慶応2年(1866)滞在中の見聞等をもとにして、「西洋事情」を発表し、当時の思想・風潮に大きな影響を与えました。
また、「学問のすゝめ」「文明論之概略」等の著作を発表し、日本の近代化に貢献しました。
また6月頃には平家物語で有名な娑羅の花が見頃を迎えます。
娑羅の双樹について
平家物語冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり娑羅双樹の花の色・・・」で広く知られているこの白い花は、朝に咲き夕方に散るので古来無常のたとえとして引用されて来た。
向陽山 光永寺
パーリ本「大般涅槃経」などによれば「釋尊は印度クシナガラ郊外の一対の娑羅樹の間に横たわって涅槃に入られた」と言う。
「双樹」の由来に関しては、①「一根から二つの幹を生じた樹」②佛身を安置した東西南北に各一対の双樹があり、釋尊入滅と同時に東西・南北の二双が合体して双樹となって佛身を被り(四双八隻)、その際に、この樹が鶴のように白変した(鶴林)③八樹の中の四樹は枯れた(四枯四栄)等々の伝説がある。
以上の故事に因んで当山では寂光堂へのアプローチの両側に「双樹」となるべくこの樹を配置した。
なお印度各地に分布するのはフタバガキ科の高木であるが、わが国では育ちにくく、古来これとは別種の「夏つばき」や「姫娑羅」を娑羅と呼称して来た。
当山のは後者の双樹である。
春は山門前の桜が美しい
光永寺の周囲には中島川にかかる一覧橋と生い茂る木々とソメイヨシノが咲いており最高のロケーションではないでしょうか。
長崎市役所も見えます。
光永寺の山門前は風通しが良いため桜が散る頃には桜吹雪が楽しめる場合もあります。
向陽山光永寺
長崎県長崎市桶屋町33